【NBAレジェンド】コービーの他界から1年。でもコービーってどんな人?

皆さんこんにちは。
ラーメンもマンガも好きですがバスケットボールもまた同様かそれ以上に愛している筆者です。
時々愛情が爆発してしまい、以前のスラムダンクの記事のように妄想が止まらなくなってしまいます。
日本におけるバスケ人気の火付け役は間違いなくスラムダンクです。
そして現在、密かに(?)日本でNBA(※アメリカのプロバスケットボールリーグ。本場であり、世界最高峰。)人気が高まってきています。

その理由は勿論2019年のNBAドラフトにて、日本人初の一巡目(全体9位)指名された八村塁選手が活躍しているからですね。
筆者もひとりのNBAファンとして何か発信したい。
そう考えた時に昨年のショッキングなニュースからもうすぐちょうど1年になることに思い至りました。
タイトルでもうわかっているかと思いますが今回はNBAレジェンドにして、昨年1月26日にヘリコプターの事故で亡くなった「コービー・ブライアント」氏について記事を書いてみます。


コービーはどんな選手だった?

(写真出典:https://www.sportingnews.com/jp/nba/news/kobe-bryant-a-career-in-images/14c47p9ol439p1rng2sovto6me)

コービーは高校卒業後すぐにNBA入りを決断しました。

余談ですが多くの選手は大学にすすみ、自分の実力を証明してからNBAへとステップアップします。

アメリカの大学バスケのレベルが高いことから、NBAのスカウトもここで選手がプロの舞台でも通用するのかを判断するんですね。

高校卒業後すぐにプロとなることは、選手の将来性という点で魅力的ではありますが、未完成な選手がどう育つのかは不透明なのでチームとしてはリスクのある選択になります。

コービーは17歳でNBAの名門ロサンゼルス・レイカーズにドラフトされて以降、20年間レイカーズ一筋の選手生涯でした。

ポジションはSG(シューティングガード)です。

かの神様マイケル・ジョーダンもSGで、コービーはジョーダンに継ぐ2番目に偉大なSGとも呼ばれています。

二人は共に競争心がとても強い選手です。

ジョーダンの技術全てを自分のものにしようというコービーの熱意は夜中の3時にジョーダンに電話やメッセージを送るほど。

ジョーダンは当初このコービーの姿勢を鬱陶しく感じたものの、自らと同じくあくなき向上心を持った選手として認め、コービーのことを弟と呼ぶ程の関係になりました。
ジョーダンのスキルをも自分のものとしたコービーは、相手のチェックをものともせずタフショットを沈めまくるスコアラーでした。

1試合にあげた得点では、歴代2位となる81得点の記録を保持しています。

また、特に試合終盤の勝負所にとても強く、印象的なブザービーターの多い選手です。

これらはコービーの圧倒的な練習量から来ており、一緒に練習をする約束をした選手が3時と言われて15時だと思っていたら朝の3時に迎えに来られて驚いたエピソードが有名です。

とにかく負けず嫌いで、最高のプレーヤーになることが目標だったコービーの練習量はプロを持ってしても常軌を逸していると言われるほど。

背番号はルーキーから暫くの間8番を、そして後年は24番を付けていました。

この24番は「1日(24時間)も24秒(ショットクロック)もどちらも1秒たりとも無駄にしない」という思いからの数字でした。

ちなみに8番、24番ともに永久欠番となっており、一つのチームで2つの背番号が永久欠番となった選手としても記憶されています。


”マンバメンタリティ”

(写真出典:https://www.sportingnews.com/jp/nba/news/kobe-bryant-a-career-in-images/14c47p9ol439p1rng2sovto6me)

そんなコービーの愛称が、「ブラック・マンバ」です。
ブラックマンバは非常に危険な猛毒を持つ毒蛇の一種です。

コービーがあまりにもシュートを決めることから敵チームにとって危険極まりない存在であること、どんなタフショットも決めるシュート力がブラックマンバの狩りの確実性(99%?)ようであることから来た愛称ですね。

コービーの精神性は「マンバメンタリティ」と呼ばれています。
プレッシャーとの向き合い方、競争意識、自負心、挑戦すること、努力することなど、スポーツマンのみならず万人に学びがありますので、日々戦う社会人の方は是非調べてみていただきたい思想です!

「自分が自分を信じてあげないと誰も信じてはくれない」

一方で、そのメンタリティからルーキー時代から当時のチームの中心選手のシャキール・オニール(通称シャック)との間に軋轢がありました。

コービーが全身全霊でバスケに取り組むのに対して、シャックはあくまでバスケットは人生の一部という認識で、練習よりもプライベートを優先することもありました。

この取り組む姿勢の違いは2人の間に亀裂をうみ、デュオとして史上有数の破壊力を持ちながらも3連覇を果たした後に球団が若いコービーをチームに残すことを決断。

結果的にコービーがシャックを追い出す形で終焉を迎えます。


晩年と引退試合

(写真出典:https://www.sportingnews.com/jp/nba/news/kobe-bryant-a-career-in-images/14c47p9ol439p1rng2sovto6me)

コービーの晩年は、怪我との戦いでした。

怪我をし、復帰してはまた怪我で離脱することを繰り返し、最後にはアキレス腱を断裂。
どんな時もハードワークを続けた彼の体が限界を訴えていました。

それでも必死のリハビリで復帰しますが、年齢も相まって往年の輝きはなく、チームも成績があがりません。

そして迎えた引退試合。
往年の相棒であるシャックから試合前に「50点とってみろ」と言われますが前述の通りコービーは体がボロボロな状態。
「無理だよ」と返し、NBAレジェンドの最後の試合を目に焼き付けようとホームのステイプルズセンターに集まったファンの待つコートに立ちます。

試合が始まるとコービーに往年の輝きが戻り始めます。
最悪のシーズンを過ごしたとは思えないプレーで次々とショットを沈め、残り時間3分、チームは8点差を追いかける状況。
全盛期の彼であれば持ち前の勝負強さが最も輝く時間帯。
ここからのプレーは是非映像で見ていただきたい!
怪我で体がボロボロになったレジェンドの引退試合でこのプレーは鳥肌モノです。

結局終わってみれば60得点を残しました。
彼にとってシーズンハイであり、当時30代で60点以上をスコアしたのはNBA史上でもコービーを含め3人だけ。

圧倒的な有終の美を飾りました。

引退後

(写真出典:https://www.sportingnews.com/jp/nba/news/kobe-bryant-a-career-in-images/14c47p9ol439p1rng2sovto6me)

引退後は柔和な表情をかなり多く見せていました。

競争者としてのコービーから、父親であり指導者としてのコービーへ。

人生の新たなステージを歩き始めたところでした。

これからのコービー、そして娘のジアナさんがどんなバスケットを見せてくれるのかを楽しみにしていたなかの昨年の事故。
本当に、本当に残念な出来事でした。

残された私達一人ひとりがコービーの想いを継ぎ、日々を無駄にせず人生を生きることが彼への最大の弔いになるものと筆者は信じています。

みなさんも今日一日、マンバメンタリティで過ごしてみてはいかがでしょうか。

RIP Kobe.


主な獲得タイトル

・NBAチャンピオン 5回

・NBAシーズンMVP 1回

・NBAファイナルズMVP 2回

・年間最多得点 4回

・オールNBAチーム 合計15回 ※ベストナインのようなもの

 1st 11回、2nd 2回、3rd 2回

・オールディフェンシブチーム 合計12回 ※ゴールデングラブ賞のようなもの

 1st 9回、2nd 3回

・オールスター 18回(18年連続)

・ロサンゼルス・レイカーズ永久欠番 No.8、No.24

※NBAのシーズンは日本のプロ野球のシーズンと似ております。

30チームでレギュラーシーズンを戦ったあと、東西の8位以上がそれぞれプレーオフトーナメントにのぞみ、東と西の勝者同士がNBAファイナルを戦い、その勝者が1年間のチャンピオンとなります。


上京ものがたり@港区

東京都港区(周辺)開拓中アラサーリーマンです。 食べたご飯やスイーツの他、映画や漫画、バスケなど趣味などについてつらつらと書いております。 都内での仕事終わりや休日の過ごし方の参考になればいいなと思い、もろもろご紹介をさせていただきます。